株式会社アール・テー・ワイの代表 湯本良一のインタビューを掲載しております。
社長がどのような人生を歩み、どのような思いでアール・テー・ワイを創立したのか。
インタビューを通して、社長の人柄や考え方、またアール・テー・ワイの魅力をお伝えいたします。

岩見沢公園展望台からの眺め

ご出身はどちらですか?

北海道の豪雪地帯、岩見沢市お茶の水町にいまもある実家は、隣まで150mほど離れている、水田を耕す農家。
6人家族の7人目、父孝良と母比佐子の長男として誕生しまして、以降、2才違い毎の妹が2人。

家族の話によると、農作業の間、かごに入れて畦においておけば、太陽を見てニコニコしながら静かに笑っている大人しい赤ん坊だったと、話していました。

子供のころはどのようなお子さんでしたか?

岩見沢市立お茶の水小学校に入学。入学したときは各学年が1学級ずつでした。

子供の頃は、農家が減る(離農)時代に入ってきて、街に出て、サラリーマンになる時代でした。どんどん、農家の子供が少なくなってきた時期のはじめの頃です。

そのため、3年生の時に複式学級(1,2年生で1学級、3,4 年生で1学級、5,6年生で1学級、学級毎に担任の先生1人)、5年生の時には複複式学級(1~3年生で担任の先生1人、4~6年生に担任の先生1人)。
6年生の時にとうとう、統廃合して母校が無くなり、新校舎・新学校へ。
複式学級、複複式学級のころ、学級委員よりももうちょっと役割があり、別学年を先生が教えているときに、同学年のみんなの勉強を見る役目が私でした。それが現在の教育事業に繋がっているのかもしれません。

北海道岩見沢市立豊中学校に入学するも 1年生時は2クラス、2年生以降はやはり、農家減少のための中学生減少で1クラスになる。軟式テニス部に所属。朝練大好き、早弁2時間目前の休み時間という、体育系ノリでした。
音楽の趣味はハードロック(Deep Purple、Led Zeppelin、ちょっとだけ Eagles、KISS、Aerosmith、Queen、そして先輩からの受け売り Beatles)で当時、歌謡曲は小馬鹿にしていました。かぶれていました。

高校は地元の学校へ進学されたんですか?

よくある地元の進学校に入学。高校で初めて市街地をとおっての通学。生徒会副会長。
そして合唱部にも所属。歌いはしませんが、市民会館で行われる年一回の高校合唱部OB会コンサートを今でも、聴きに行っています。
恩師とは今でもFaceBookで繋がっています。

生徒会副会長と合唱部を含め、部活も活発にやり、優良な学生かというと、決してそんなことはありません。
しかし、当時は不良を気取って、乱闘などけんか以外の一通りの悪いことはした、調子のいい軟派で、それなりに人気者だったと思います。
進学校なのに勉強はほとんどしておらず、アパート住まいの友人宅で、授業を受けずに麻雀をしていたこともあります。ただ、合唱部などは真剣だったので、授業が終った放課後、部活や生徒会活動のためだけに、登校することもありました。
そうなると帰宅部の同級生と通学路、すれ違いざまに、「おまえ、定時制に転学したんか?」とからかわれました。定時制が併設された高校でしたので、ちょうど通学時間に当たっていたのです。

ひどい出席日数、ひどい成績で担任や部活の顧問に、相当な心配をかけながらも、なんとか卒業。しかして、当たり前ながら、現役受験もさんざんでした。

どんな大学生活を送っていましたか?

新聞配達奨学生をしつつ、仮面浪人を囲っていたのが高校新卒後の大学1回目。
受験勉強はそれなりにして、結果として卒業生となった大学は実質一浪での入学です。

大学時代は生活費を自分で賄うため、ホテルで宴会やホテルレストランのウェイター、バーテンのアルバイトをしていました。
高校時代は部活、大学時代はアルバイトをせざるを得ずで、やはり通学はおろそかに。

ただ、そのバイトは時給960円と、当時では結構な高給でした。ピーク時には10日間で100時間以上働いて、10万円を10日毎にもらっていた(10日毎の給料締めだった)ため、月収が30万円を超える月も多かったですよ。
平均すると、月収20万円超ぐらいだったと思います。
余計なこととして、嬉しかったのは、大晦日と正月三が日は4時間に1,000円、バイト代とは別にご祝儀があったこと。だから、年末年始は学生時代、一度も帰省していません。

なにはともあれ、ほとんどアルバイトばかりしていて、単位が取れただけの成績最低ランクの学士です。

就職活動のエピソードをお聞かせください。

「俺は仕事だったらできるヤツ。」と勘違いし、就職活動は当時のシティホテルを志望し、たくさん応募しました。しかし、現場は半端なく分かって、使えるホテルマンでも、学業成績があまりにも悪いため、当然ダメ。

ホテル採用に高卒待遇だったらと入社の誘いのお話し、いくつかいただきました。

ただ、生活費は稼いでいたとはいえ、学費は親におんぶにだっこ。折角、大学に行かせてくれた親に申し訳なく、大卒を生かした応募をしましたが、大卒待遇の募集では、ほとんどが書類審査で落ちました。

どのような業界に就職されたのですか?

札幌のソフトハウス、今でいうシステム開発系IT企業のマネジメントワークという会社に新卒で入社。

入社を決めた理由は、地元の会社であったことと、ほぼそこからしか、内定をもえらえなかったからだけです。情けないかな、深い理由や、きちんとした志望動機もありませんでした。

てっきり札幌勤務、札幌から実家の岩見沢は汽車で50分、実家から通う気持ち満々でしたが、札幌での新人研修、直後の辞令日に ” 東京勤務 ” を命じられ、東京に戻ることに。その会社は現在、精算されて存在していません。

元々がバイトオンリー大学生でしたし、ITという言葉も無い時代、ソフトハウスは何をする会社を指すのかも分かっちゃいませんでした。

入社前研修として与えられた通信教育の教材の勉強も、当時の彼女(現在の奥さん)にやってもらっていました。やってくれた奥さんも奥さんなら、それをたのんじゃう、ろくでもない湯本って。

入社後はうまくいきましたか?

入社前の新入社員のイメージと、実際の新入社員としてやるべき事の違いに、大きな意識ギャップがありました。

それは社会人になるまでのイメージはアルバイトを引きずっていて、新入社員は手を動かし、足を動かし、指示されたことをさっさと動く・はたらくものです。

座っているよりも立って動いている時間が多い、丁稚的に雑務をなんでもこなす職業イメージです。

ところがリアルに入社したら、すぐの新入社員研修もほとんど座って勉強です。

当時はPCもほぼなかったため、コーディングといいますが、プログラムを紙に書け、仕様書を読みこんで理解しろ、マニュアルを読んどけと、まるっきり机に向かって座ってやることばかりです。

さらにレビューを含む、打合せも座って行うわけで、仕事に対しての大きなカルチャーショックを受けました。

それもあり、この頃、お酒もよく飲みましたが、業界からはじき出される恐怖感から、本当にヤバイと思って、いちばん勉強したのではないかと、振り返っています。

なぜ会社を辞めようと思ったのですか?

会社を辞めたキッカケは、入社したマネジメントワークが現在で言う民事再生、当時で言う和議申請をしたタイミングで退職しました。

会社を辞められた後、どうされたのですか?

会社員時代からのプロジェクト先であるクライアント(コンサル)より契約社員にならないかと誘いがあったため、会社員では無くなったが同じプロジェクトで働き続けました。

当時、取引のあった会社(お客様)のプロジェクトに関わることになり、その後はそのままその会社の契約社員として働いていました。

その会社で8か月程働いた後に、派遣社員として様々な会社で働いて、29歳の時に今の会社を設立しました。

会社を設立しようと思ったきっかけをお聞かせください。

会社を設立しようと思ったのも、私が農家の生まれっていうのが要因かもしれませんが、
「家族一団となって仕事をしたい。」という思いがあったからです。
実家の農業で、仕事が忙しくなると家族総出で働いて、乗り切るのです。
だから、「お父さんは働く人。それ以外は、お父さんの稼ぎで養ってもらう人。」という当時の世間一般の家族の関係性を築くイメージがありませんでした。

仕事が忙しいときは家族全員で乗り切る、っていう家庭を作りたかったのです。
それを目指すとしたら、サラリーマンではできないと思ったので、会社を設立しました。

当時から明確に意識していたわけではありませんが、今考えると、『家族や社員と価値観を共有できる会社』、『 ” ソーシャルシフト ” を実現する会社』、そんな私自身の理想的な働き方ができる会社を作りたかったのだと思います。

その他の要因として、当時、派遣社員としてお世話になっていたお客様から「独立したら直接契約を結んでもいいよ。」というお話を頂いていました。

派遣会社を経由せずに、お客さまと直接契約を結ぶと、当時の給料の4倍近くのお金をいただけるのですよ。29歳で今までの4倍の給料をいただけるわけですから、「じゃーやっちゃおうかな(笑)。」と思って独立しました。

独立に不安はありませんでしたか?

今考えると非常に安全な独立でした。

当時、全く不安がなかったというわけではありません。
しかし、契約期間中は安定して収入があるわけですから。
とはいっても、3ヶ月とか半年とか1年間という契約期間中の安定であって、これから一生安定ってわけではないけれど、でも人生って実際そんなもんなんじゃないかな~って思っていましたから。

少し先の安全があって、更にその先の安全を得る為に、日々挑戦していくことが人生において重要だと思っています。

一生安泰を求めて保守的になることばかりに意識が向いてしまうと、現状を守ることに必 死になって挑戦しない人生になってしまいますからね。

人生は前進するか、後退するかの二択しかないです。

現状維持は立ち止まっているようで、実は後退しているのです。

本人は気づいていないことが多いですが、一生安泰を求めて保守的になるってことは一歩一歩後退しています。
そして、どんどん後退していると、いつの間にか後ろが崖になっていることがあります。 たいていの場合は、一歩後ろが崖であることに気づいて、はじめて「どうしよう~。」って焦りだしますよね。

分かりやすい例で言えば、リストラや倒産です。保守的な人ほど、そういう時に焦りますよね。

安静する時は必要ですし、一回休みは人生当たり前。しかし、そういうリストラとか倒産というイベントはつぎに向かうステップと考えた方が、キャリア的にも、精神的にも、健康的にも結果は良いと、思っています。

人生において、後ろには崖しかないと考えます。それであれば、どんどん前進した方がよいのじゃないか、と考えています。一歩一歩前に踏み出して挑戦していく。アドベンチャーといいますか、チャレンジといいますか、そんな人生の方が私はいいと思っています。

仕事がなくなることへの恐怖はなかったのですか?

仕事が無くなることにそこまで恐怖は無かったです。仕事が無くなるってことはそこまで悪いことではないですからね。
そりゃ、ドキドキはしましたよ(笑)。毎月サラリーマンの数倍のお金をもらっていたのが、来月からゼロなるわけですから
でもまぁそんなもんでしょう、っていう考えでした。ドキドキしながら前へ進んでいった、って感じです。

現在の事業内容をお聞かせ下さい。

私どもの会社では、3つの事業を行っております。時系列で古い事業より、『システムの受託開発』、安定的な事業である『IT 教育事業』、そして2012年から始めました『SES(システム・エンジニアリング・サービス)事業』、この3事業です。
※システムエンジニア・プログラマなどが企業のプロジェクトに参入して業務支援をする事業

さらに本年より、各事業から分派してまとめた、公共委託事業を育てているところです。

『ITの教育事業』が主な事業へと成長したエピソードをお聞かせください。

ITの教育事業は会社設立当初から細々と行っており、少しずつ右肩上がりで成長していきました。

29歳の時に初めてITの研修を4日間実施したのですが、まぁ初めての研修ですから、ボロボロの先生体験でした。それでも真剣に熱意をもって研修を行ったおかげか、聞いている受講者からは「良かったね」って言ってもらえ、受講者アンケートも五段階評価のオール5と、喜びややりがいを感じたのを覚えています。

ただ売上げとしては微々たるもので、教育事業の売上は年間で15万~20万程度でした。

細々と教育事業を続けていたのですが、35歳を超えた頃から教育事業が面白くなってきて、案件の数も増えてきました。

35歳から今までの20年間超の間で、教育事業の年商が6,000万を切ったことはないです。始めた当初は年商10万程度の事業が、今の会社の一端を支える事業になっているのは、不思議なものですね。

『IT教育事業』とは具体的にどのような事業内容なのでしょうか。

私どもの会社では情報通信に関する企業向け研修をメインに、研修の企画から実施・フォローまでトータルに実施しています。こういうIT教育を実施している企業はいろいろありますが、私どもの会社では大手さんの価格の何割引で提供することで、ビジネスが成り立っております。

大手では提供できない価格によって差別化を図っているのですか?

価格もそうですが、そもそもターゲットもサービスのコンセプトも違います。そこで差別化を図っていますので、大手さんを競合だとはあまり思っていません。

アール・テー・ワイの教育とはどのようなものですか?

教育事業には大きく分けて2つあります。

ひとつはビックユーザーさん(大企業など)に対してオーダーメイドの研修を提供する教育です。

もうひとつは、パッケージ化された研修を提供する教育です。

オーダーメイドの研修についてお聞かせください。

オーダーメイドの研修は、言葉の通り、企業の要望通りの研修の企画を作って、その研修に必要な教材を作って、それに必要なシステムを作って、そして講習を数日間実施して、アフターフォローまで実施するものです。ある意味 ” 注文住宅を建てる ” ようなものです。

パッケージ化された研修についてお聞かせください。

パッケージ化された研修では、企業の要望に応じて、既にあるパッケージを組み合わせて企業の要望に合った研修を実施する。これは ” プレハブ住宅を建てる ” ようなものです。

アール・テー・ワイでは主にどちらの研修を取り入れているのでしょうか?

私どもはパッケージ研修、いわゆる ” プレハブ住宅を建てること ” に力を注いでおります。

” 注文住宅 ” は大げさに言えば、お城や邸宅。
一部の王様や殿様が建てるようなものですよね。研修も一緒です。そういった人たちに研修する能力もありませんし、そもそも、そこへのサービスを提供することを面白いと思っていませんのでやりません。

” プレハブ住宅 ” でもないと住む場所が無くて困る人がいるように、ITスキルや知識、資格、といった基本的な能力がないと困る人が必ずいます。

少し言い方が悪いかもしれませんが、スキルレイヤのピラミッドの下の方にいる人たちに少しでも上に行くための研修・教育をするイメージですね。そのボトムアップさせる教育には私自身、ものすごく自信を持っております。

そのような研修に対する自信と面白さを感じるのは、小学生頃先生役として活躍されていた時の影響かもしれませんね。

私が担当した場合、好きな研修は、受講生が多すぎず少なすぎずの人数への研修です。まさに学校教育のような規模ですね。一人ひとりの顔と名前もわかり、受講者の理解した顔、理解できない顔を見ながら研修をしている時が一番楽しいのです。

SE向けの新人研修は35歳の頃から48歳までやっていましたが、毎年100名ぐらいの方々にお教えする仕事をしていました。本当は今でも教えたいですよね。会社経営が嫌になったら単に講師として、教えに行こうかなと思っています。(笑)

アール・テー・ワイの採用についてお聞かせください。

私どもの会社は、誰でも入社ができます。能力やスキルに対して優劣を付けて、合否を判断することはありません。基本的に、応募して頂いて、入社意欲のある方はどなたでも内定を出しております。

誰でもですか?

誰でも入社できるのですが、一つだけ条件がございまして、それは価値観を共有できることです。

価値観の共有とは具体的にどのようなことですか?

『価値観の共有』っていうと、すごく難しく聞こえるかもしれませんが、そんなことはありません。私たちが言っている『価値観の共有』は、なにも入社する段階で「会社の価値観全てを理解して、共感しろ。」ってことではなくて、その段階でマイナスイメージさえ持っていなければいいってレベルの話です。分からない部分、理解できない部分があってもいいです。そこは、入社後にお互いがあゆみよれば、調整して共有していくことが可能な範囲だと考えています。

会社への変な固定観念をもっていないことが大切です。
例として、「労使は対立するのが当たり前。」であるとか、「江戸時代と一緒。社長が殿様で、平社員は下級武士みたいな階級。」であるとか、「会社の究極の目的は、会社の利益最大化。」であるとかのような、個人の常識やメンタルモデルを持たないことです。

例のようなことは私たちの会社とは、相容れない考え方です。

入社する段階で私どもの会社の『価値観』にマイナスイメージをもたれていなければ、どなたでも入社が可能です。こういった採用方法をしているおかげで、採用活動には全くお金をかけないで済んでいます。

通常はより優秀な人材に入社してもらうために、採用の段階で応募者の能力やスキルを比べますが、それもされていないということですか?

採用の段階で応募者の能力やスキルを比べることもしていません。

私自身、IT業界がどんなものかも知らずに、この業界に足を踏み入れて、今では社長をやっています。

入社当初の優劣はそこまで重要じゃないというか、入社後にいくらでも教えて、伸ばすことができると考えています。

湯本社長の ” 採用 ” についての考えを教えてください。

” 教える ” とは「なにも知らないモノを育むためにあるもの。」と考えています。これから入社する方はITスキルや知識についてなにも知らないことを前提に、” 教え育むための社員 ” として入社して頂いております。

採用に多額のお金を投じて、たくさんの求職者に応募してもらい、採用の段階で応募者の能力やスキルを比べる、いわゆる ” 選抜 ” ですよね。この採用における ” 選抜 ” において、選んだ人と選ばなかった人との間で、本当に大きな差があるのでしょうか。それは、採用して3~5年経ってみないと分からないのです。3~5年経ってみないと分からないってことは、採用してみないと分からないのですよね(笑)。

私どもの会社は規模がそこまで大きくないですし、大きくすることが目的でもないのです。

そのため、応募してきた方を採用する、採用してから考える、という採用方法を実施しています。

この採用方法を導入するうえで重要なポイントはありますか。

従業員と会社とが向き合って、ひとかどの者・一隅を照らす者になるにはどうしたらいいか一緒にじっくり考えることが重要です。

従業員たちも当然努力しなければならないけれど、会社も従業員一人ひとりと向き合って教育方法を考えなければ、従業員一人ひとりを育むことはできません。

なぜ、このような採用方法を導入されたのですか?

私は色々な企業の新人研修を実施してきましたが、まともなエンジニアになるには、当然時間がかかります。大体一般的には2年程度は必要です。

総研系やコンサルティング会社に入社するような地頭力のある新人でも、ほんの10%弱程度の人材を除き、半年~1年くらいの研修を含めた見習い期間が必要です。新人を教育するには多くの時間と費用が必要なのです。

しかし、会社としては即戦力の人材が欲しいじゃないですか。昔は私も即戦力を最優先に考えていたので、新人教育を省くために、経験者のみを採用していました。それこそ、ヘッドハンティング会社にお金を払って採用をしておりました。

この採用方法が悪いとはいいません。ただ、この採用方法を取っていた当時は、従業員との関係が『お金と仕事のみの関係』になっていたのです。価値観もなにも共有できていない関係、一緒に働いているけれど、それはお金を経由した関係になっていました。

まー、当然の関係といえば当然の関係ですけれど。だた、その関係も度を超すと、経営者と従業員の間でお金と仕事のミスマッチが起きるのです。

経営者は「こんだけ働いてくれたからこんだけの給与が妥当だろう。」と考える。従業員は「こんだけの給与だからこんだけ働けばいいだろう。」と考える。
このお金に関するミスマッチの延長上には、経営者は従業員に対して「思ったほど働かない。」と思うようになる。

従業員は会社に対して「給与が少ない。働きに見合ってない。」と思うようになる。そうするとどうなるか、経営者は「従業員をどう働かせるか。」を考えるようになる。従業員は「いかに働かずして給料をもらうか。」を考えるようになる。
こんな会社と従業員との関係性は不幸のどん底だなって感じた瞬間に、(この即戦力となる経験者を採用する方法はやめよう。価値観を共有できる人材を採用しよう。)って思いました。

価値観の共有ですね、他には何かありますか?

もうひとつ、新人(未経験者)採用を導入した理由があります。

それは、私が考える ” 教育 ” を実現したかったからです。自分でいうのもなんですが、私どもは ” 教育 ” が上手です。それを商売のメインにしていますし、いろんな会社さんに評価して頂いております。

受注して頂いた企業の人事教育担当者には評価され、研修受講者からのアンケートの評価もいい…。

でも、本当にそれで私は人を育てているといえるのか、と疑問に感じました。知識を教えているだけ、IT資格を提供しただけなのじゃないか、って思うようになりました。

人が育たなければ、教育に意味はないと思っています。人が育っていないのに教育していますって言ったら嘘つきであると考えます。

知識の提供だけでなく、実際の現場での仕事を経験させて、一人前の仕事ができるようになるまで育てることが本当の ” 教育 ” なんだと思います。

「人を育てる教育がしたい。」と思い、スキル・知識の有無に依存しない採用方法を導入して、私が考える ” 教育 ” を始めました。

従業員の教育(マネジメント)において大事にされている点はありますか?

人を教育していく上で私が重要だと思うのは、” 従業員との辛さのすり合わせ ” です。

これは、従業員を教育・マネジメントする上で、これから経営者が考えなければならないことだと思っています。

具体的に ” 従業員の辛さのすりあわせ ” についてお聞かせください。

いまどき「バカ!マヌケ!」と言って育つ人間はいないですよね。それが教育として成立していたのは過去の話です。

いわゆる ” ムチ ” で叩くだけで育つ人間はもういません。” ムチ “を使って鍛えあげる教育やマネジメントをしていたら、結局だれも会社に残らないと思います。恐らく、私が若年者だったら、そんな会社にいたくないです。

だからと言って ” アメ ” だけの教育で、ビジネスの世界を乗り切るのは難しいとも思います。ビジネスの世界は厳しいですから。

従業員を育てたい、でも厳しすぎると辞めてしまう、甘やかし過ぎるとビジネスの世界では通用しない…。ある意味ジレンマですよね。

こんな時代だからこそ、” 経営者と従業員との辛さのすり合わせ ” が必要なのだと思います。

従業員の辛さを感じ取ってあげながら(辛さをすり合わせながら)、その従業員にとって最適の教育方法やマネジメント方法を考えていく必要があると思っています。

従業員一人ひとりの特性に応じて、教育方法を変える必要があるわけですね。

その時代の価値観や従業員一人ひとりの特性に応じて教育方法を考えなければいけません。

だから、『魔法の杖』はないってことを理解しておかなければなりませんね。

『魔法の杖』とは?

魔法の杖』とは、人の教育やマネジメントにおける課題を簡単に解決する方法はないってことです。

昔の名著に『狼人間を撃つ銀の弾はない』というものがあります。この本の内容から、業界では ” 銀の弾はない ” と使われています。

これがどういう意味かというと、狼人間というのは銀の弾を撃てば死ぬといわれているのですが、そもそもそんな弾はこの世には無いのです。だから狼人間を簡単に倒す術はないということ。

それを転じてIT業界では、ソフトウェア開発という困難な課題を簡単に解決する魔法のような手法やツールは存在しないという意味で使われています。

業界の課題や組織の課題などが、そんな簡単にガラガラポンっと変えられるわけがないのです。だから、一つひとつ実証していくことが大事なのです。

人の教育も一緒で、教育やマネジメントにおいて画期的で効率的且つ効果的な手法なんてありません。だからこそ、一つひとつ着実に教育していくことが重要なのだと思います。

『人月の神話【新装版】狼人間を撃つ銀の弾はない』(Amazon)(参照 2018.Nov)

湯本社長の ” 夢 ” をお聞かせください。

私個人の夢としては、仕事人生を終えた時に「私の仕事はなかなかのものだった。」と振返ることができれば最高です。
少なくとも人生の終盤で「まんざらでもない人生だった。」とは思いたい。いや ” なかなかな ” レベルは難しいので ” まんざら ” レベルでいいのでしょう。
仕事が嫌で嫌でリタイアして、仕事のことは全て忘れようとする老後は嫌ですね。

「どんな仕事だって、仕事をやっていれば、自己嫌悪で胸の奥がヒリヒリすることがあるさ。」
「その胸のうずきを、場末の居酒屋の生ビールを流し込んで、忘れたふりをするのが働くっていうことなのじゃないか。」
「這いつくばってののしられて、それでも与えられた仕事ひとつひとつこなしていく。そうやって生き続けたとき、次が見えてくる。」

上記はドラマ「ハゲタカ」に出てくる、正義ぶった柴野課長に、三葉銀行の同僚管理職が言ったセリフですが、私には絶対にできそうもありません。

尊敬する方をお聞かせください。

尊敬する方は、斉藤 徹さん、浅井 浩一さん、出口 治明さん、吉田 猫次郎さんです。

この方々に共通して尊敬している部分は、「良いことも悪いことも身をもって経験したことが言葉になっている。」というところです。

例えば、吉田 猫次郎さんは事業再生コンサルタントをされている方なのですが、この方はご自身でサラ金、闇金、商工ローンなどで総額7,500万円もの借金を抱えていたのです。それでも会社を潰すことなく、正しい努力をして対処し、借金を返し切った方なのです。

私は ” 明るい経験も暗い経験もある ” って素晴らしいなと思っています。

失敗とか精神的ダメージとかを、たくさん経験した人生が、最終的に豊かな人生になるのじゃないかなと思っています。

私自身の人生も豊かな人生だと思っています。こういったいろいろ苦労された方々とお話させてもらうと、「まだまだやれることはあるな。」と思えてきます。

あとは、本当にどうしようもなくなったら、『テレサテン戦法』というものがありまして(笑)。

まー、どうしようもなくなったら、時に身を任せればいいのですよ。生きていれば次がありますから。

好きな言葉をお聞かせください。

好きな言葉は、日揮グループ代表・相談役の重久吉弘さんの

スピーク・アップ(Speak up)。」です。

意味としては、「なにはともあれ思い切って話しかける。」です。

いつでも実践した方がいいなと思っています。

最後にメッセージをお聞かせください。

評論家にならず、ワタシゴトと考えて素直にまじめに、明るく行動する」ということを伝えたいです。

暗くなれば暗くなるほどいいことはありません。バカっていわれても明るい方がいいです。

素直にまじめっていうのも成功する条件です。これを意識していれば、必ず次のステップが踏めます。

ビジネスの世界では飛び抜けた才能も必要ですが、飛び抜けていない才能の人を、実はたくさん必要としています。

特殊な技能ではなく、リテラシとして必要な能力と社会人力があれば、充分社会に通用します。社会に通用するようになると、どんどん仕事ができるようになります。そうすれば、キャリアっていう階段を上がることができるようなります。

自分に飛び抜けた才能がないってことに悩む必要もありません。自分ができることを一生懸命すれば必ず、道が開けます。

ぜひ頑張ってください。